韓国の「昭和」を求めて 木浦に残る日本
小林です。 毎週土曜日、わたくしの地元福岡で放送されてる、TNCテレビ西日本、土曜NEWSファイルCUBEですが、昨日(2006.1.7)、また特集をやっていたようです。 題して「韓国の昭和を求めて 木浦に残る日本」。
↓番組のサイトから引用
▽あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
▽今週の「土曜NEWSファイル『CUBE』」は、直木賞作家・佐木隆三氏が訪ねる韓国・木浦(モッポ)の旅です。太平洋戦争前から戦中にかけて、韓国西部に広がる穀倉地帯の農作物を日本へ輸出するために栄えた港町・木浦。現在、韓国内の開発に取り残された形となった韓国最西端の港町には、未だに当時の面影が深く残っています。韓国の中に残された『昭和』を作家が歩きました。
わたしたちはよく、戦後日本に残った在日朝鮮人の方たちの話題になりますが、逆に、韓国に残った日本人はどんな暮らしをしているのだろうと、普段から気になっていました。
今回、小林にとってはそういう意味でグッドタイミングだったのですが、残念なことに番組を見たら、もう終盤でした。 ですので、テキスト起こしも途中からです。 どなたかご覧になった方はいますか?。

3人ぐらい、ずうっと先導してくれちゃって、後ろも前も横もね、全部見てくれちゃったんですよ。 朝鮮人同士でも危ないんですよ。 日本人をそうやって助けるというのを見られたらいけんから、そりゃあ、警戒してね。 私どもを送り届けてくれたんです。木浦(もっぽ)駅まで。

木浦で終戦になったんですけど、その時、突然、あの、皆さん朝鮮の方が、あの立ち上がったというか、「もう日本人帰れ!」とか言って、あの、石をぶつけられたりしたことがあったんです。

ほとんどの日本人が引き上げていくなか、この木浦の町にのこり、生きていくことを決めた一人の女性がいました。 児童養護施設 木浦共生園。 高知県から木浦へやってきた田内千鶴子さん。


この養護施設を一人で運営していた韓国人牧師 ユンチホさんと結婚。 終戦後もこの場所に留まり、孤児たちの世話に力を注ぎました。 しかし、戦後日本人ということで、苦しい立場に立たされることも多かったそうです。

千鶴子さんの孫の一人にあたる、 チョンエラさん。 現在の園長です。



戦争が終わって、日本人がみんな引き上げても、自分はここに残って、いろんな複雑な思いがあったと思うんですけど、人からいろんなお話を言われたり、、、でもそれが時間が過ぎると、木浦の市民が本当に千鶴子は子供たちを愛しているんだ、、、で、木浦を愛しているんだ、、で、韓国を愛しているんだ、、で、そういう思われるようになりまして。

太平洋戦争の傷跡がまだ癒えない1950年。 朝鮮戦争が始まりました。 その不幸な戦争で夫を亡くした千鶴子さんでしたが、慈しみ深い心で孤児たちを励まし続けました。


1968年、千鶴子さんが亡くなった時、木浦駅前に3万人の参列者が集まり、市民葬が行われました。




現在、共生園にはおよそ80人の子供たちが暮らしています。 共生園で暮らす理由は時代と共に変わってきていますが、千鶴子さんの意思を継いだ職員たちの子供への愛情は変わりません。

韓国の中にたたずむ日本の姿。 二つの国を結ぶ心の鍵が、この街にはあるのかもしれません。

えー、今回左木さんが訪れた木浦を、松浦さんも椎葉さんもまぁ、行かれたことないということですが、 ご覧になっていかがですか。

いや、なんか古いたたずまいで、本当にちょっと懐かしい感じがしましたね。

しかし、そのね、椎葉さんね、ですから物理的な遠い近い、そしてその精神的な遠近、このバランスが本当大事なんだろうなと考えさせられるものがありますよね。

そうですね、今の話なんかも、もう初めて聞いた知らなかった話があんなに近いのに、知らなかった話がいっぱいあって、まずそうやって知ることができないし、普段、だから、番組を通じてですね、皆さん、知られて、 でも個人の思いとか、個人的なことで仲良くなりたいとか、謝らなきゃいけないとかいうのが一番本当のことだと思うんですね。 そこらへんこう、、国レベルになると難しい問題いっぱいあるんですけど、少なくても我々レベルではやれるわけですからね。なんか、すごく今なんかやりたいなぁという気持ちになってきました。
再び小林です。 こういう方がおられたのですね。 千鶴子さんはたぶん韓国に帰化して、韓国人として生涯を終えたのでしょうか、、、。 最初は日本人だということで、いろいろ苦労もあったようですが、努力のかいもあって、だんだんと韓国人社会から受け入れられ、感謝されていく様子を垣間見ることができました。 やはり、郷に入りては郷に従えじゃないですが、社会に溶け込む努力をするということは大切ですよね。 こういう方がおられたということは同じ日本人として嬉しくなります。
在日の方も住居問題とかで差別だとか、裁判だとか騒ぐのではなくて、「在日の方ならぜひ、借りてほしい」と大家さんに言わせるくらいやってみれば?、、って思うんですが、いかがでしょうか。
それから、最後の方のコメントの「個人的なことで、、、謝らなきゃいけない」という部分が気になるのですが、、。
↓番組のサイトから引用
▽あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
▽今週の「土曜NEWSファイル『CUBE』」は、直木賞作家・佐木隆三氏が訪ねる韓国・木浦(モッポ)の旅です。太平洋戦争前から戦中にかけて、韓国西部に広がる穀倉地帯の農作物を日本へ輸出するために栄えた港町・木浦。現在、韓国内の開発に取り残された形となった韓国最西端の港町には、未だに当時の面影が深く残っています。韓国の中に残された『昭和』を作家が歩きました。
わたしたちはよく、戦後日本に残った在日朝鮮人の方たちの話題になりますが、逆に、韓国に残った日本人はどんな暮らしをしているのだろうと、普段から気になっていました。
今回、小林にとってはそういう意味でグッドタイミングだったのですが、残念なことに番組を見たら、もう終盤でした。 ですので、テキスト起こしも途中からです。 どなたかご覧になった方はいますか?。

3人ぐらい、ずうっと先導してくれちゃって、後ろも前も横もね、全部見てくれちゃったんですよ。 朝鮮人同士でも危ないんですよ。 日本人をそうやって助けるというのを見られたらいけんから、そりゃあ、警戒してね。 私どもを送り届けてくれたんです。木浦(もっぽ)駅まで。

木浦で終戦になったんですけど、その時、突然、あの、皆さん朝鮮の方が、あの立ち上がったというか、「もう日本人帰れ!」とか言って、あの、石をぶつけられたりしたことがあったんです。

ほとんどの日本人が引き上げていくなか、この木浦の町にのこり、生きていくことを決めた一人の女性がいました。 児童養護施設 木浦共生園。 高知県から木浦へやってきた田内千鶴子さん。


この養護施設を一人で運営していた韓国人牧師 ユンチホさんと結婚。 終戦後もこの場所に留まり、孤児たちの世話に力を注ぎました。 しかし、戦後日本人ということで、苦しい立場に立たされることも多かったそうです。

千鶴子さんの孫の一人にあたる、 チョンエラさん。 現在の園長です。



戦争が終わって、日本人がみんな引き上げても、自分はここに残って、いろんな複雑な思いがあったと思うんですけど、人からいろんなお話を言われたり、、、でもそれが時間が過ぎると、木浦の市民が本当に千鶴子は子供たちを愛しているんだ、、、で、木浦を愛しているんだ、、で、韓国を愛しているんだ、、で、そういう思われるようになりまして。

太平洋戦争の傷跡がまだ癒えない1950年。 朝鮮戦争が始まりました。 その不幸な戦争で夫を亡くした千鶴子さんでしたが、慈しみ深い心で孤児たちを励まし続けました。


1968年、千鶴子さんが亡くなった時、木浦駅前に3万人の参列者が集まり、市民葬が行われました。




現在、共生園にはおよそ80人の子供たちが暮らしています。 共生園で暮らす理由は時代と共に変わってきていますが、千鶴子さんの意思を継いだ職員たちの子供への愛情は変わりません。

韓国の中にたたずむ日本の姿。 二つの国を結ぶ心の鍵が、この街にはあるのかもしれません。

えー、今回左木さんが訪れた木浦を、松浦さんも椎葉さんもまぁ、行かれたことないということですが、 ご覧になっていかがですか。

いや、なんか古いたたずまいで、本当にちょっと懐かしい感じがしましたね。

しかし、そのね、椎葉さんね、ですから物理的な遠い近い、そしてその精神的な遠近、このバランスが本当大事なんだろうなと考えさせられるものがありますよね。

そうですね、今の話なんかも、もう初めて聞いた知らなかった話があんなに近いのに、知らなかった話がいっぱいあって、まずそうやって知ることができないし、普段、だから、番組を通じてですね、皆さん、知られて、 でも個人の思いとか、個人的なことで仲良くなりたいとか、謝らなきゃいけないとかいうのが一番本当のことだと思うんですね。 そこらへんこう、、国レベルになると難しい問題いっぱいあるんですけど、少なくても我々レベルではやれるわけですからね。なんか、すごく今なんかやりたいなぁという気持ちになってきました。
再び小林です。 こういう方がおられたのですね。 千鶴子さんはたぶん韓国に帰化して、韓国人として生涯を終えたのでしょうか、、、。 最初は日本人だということで、いろいろ苦労もあったようですが、努力のかいもあって、だんだんと韓国人社会から受け入れられ、感謝されていく様子を垣間見ることができました。 やはり、郷に入りては郷に従えじゃないですが、社会に溶け込む努力をするということは大切ですよね。 こういう方がおられたということは同じ日本人として嬉しくなります。
在日の方も住居問題とかで差別だとか、裁判だとか騒ぐのではなくて、「在日の方ならぜひ、借りてほしい」と大家さんに言わせるくらいやってみれば?、、って思うんですが、いかがでしょうか。
それから、最後の方のコメントの「個人的なことで、、、謝らなきゃいけない」という部分が気になるのですが、、。


